桜の季節は別れの季節
2006年 04月 12日
せめて世界王者ぐらいは試合一本で食える環境にはならないのか、という修斗の現状に寂しさを覚える一方で(青木の修斗休業は収入とは別の次元の問題なのかもしれないが)、今回の青木の決断には拍手を送りたい。
メジャー団体による中量級総合格闘技が1つのジャンルとして確立しつつある現在、「修斗世界王者」の肩書きをもつ青木がHERO’SやPRIDE武士道に上がれば、これまでと比較にならないファイトマネー・名声を得るチャンスは十分にあっただろう。(実際、専門誌の記事によるとPRIDEからオファーがかかっていたらしい。)
だが青木は、今年2月にタイトルマッチでベルトを奪取した後、リング上で「今、修斗でチャンピオンになることがほかの場所で活躍する登竜門みたいになってるけど、オレは修斗が1番だと思ってます。オレは一生修斗しかやりません」と宣言。結果的にこの意思を貫き通し、けじめとして王者のまま修斗を離れることとなった。
新しい何かに対応するため、変化をし続けることには労力も勇気もいる。だけど、変化をしないことが楽な選択だとは限らない。自分の信念に従うために1つの場所に留まりつづけることは、変化し続けることと同じぐらい、あるいはそれ以上の勇気を必要とする。
ベルトを切符代わりに、更なるチャンスを求めて別のリングへ上がるのも1つの選択。だけど青木はそれを選ばず、「修斗」という自分の志に最後まで殉じてみせた。我々外野の人間は、黙って一人の青年の決断を受け入れるしかない。(静岡県警に就職した青木に「殉じた」という表現は不穏当かもしれないが。)
最後まで妥協せず、真っ直ぐに、純粋に接することのできる何かを、これまで自分は持ったことがあるだろうか。あるいはこれから先、持つことはできるだろうか。
見ている側にそんな思いすら抱かせながら、王者は静かに、リングを去る。
桜もそろそろ散ってきますね。人気blogランキングへ